その水溜りの深さは

今週のまとめ

仕事の本採用が決まった。

今のところこれまでで一番働きやすい環境だ。

上手くいかないこともあるが、営業や清掃員時代よりも遥かにマシである。あの頃の地獄には一生戻りたくない。だから今の環境を守るためにもしっかり働こう。

今でこそこんな風に思えるけど、この職場も新卒で入社してたらきっとなんやかんや言い訳して辞めていたかも分からない。そう考えると社会人1年目の自分から少しは成長出来ているかもしれん。給与の低さを嘆くくらいなら帰ってUber Eatsでもした方が遥かに生産的である。そう思って行動できるようになったのは個人的に大きな成長だと捉えたい。

そこまではいいんだけど、ここ最近諸々タスクを抱えすぎたな、というのも正直なところ。

仕事にUber Eats、役者、note、DJ…

明らかにキャパオーバーだ。成長したぞと言ってもここまで同時に捌くのは無理がある。

だって菅田将暉かて歌と芝居よ?菅田で2つで俺5つ?いや~ないないないないない。ひとまず今は経済的な基盤を固めてお芝居に集中しないと。

あとこれはちなみになんだけど、このシェアハウスは消灯時間が恐ろしく早い(個人的には)。既に2人はもう寝ていて2階の照明は消されてしまった。僕は普段あと1~2時間は起きているのにも関わらず、この時間を上手く使えていない。何とかしたいものである。ていうかそもそも引っ越しを視野に入れたい。それにはお金がいるし、お金がいるならUber Eatsとかして節約して…あ~~!がんじがらめじゃ!

 

本来ならここで映画を見たり、本を読んだり、note書いたりDJしたりとしたいところなのに全く気力が沸いてこない。

それに最近は映画を最後まで見る体力もなくなってきたように思えるし、小説を読んだり音楽を聞いたりしても心が動いた!みたいな感動があんまりないような気がする。

何も感じ取れないから何もアウトプット出来ないのだ。幸い僕は凡人なので、それが出来なくても仕事だけしていれば生活は出来る。

 

しかしまあ、それはそれで少し寂しい。

人生を豊かにするには、今の自分に何が必要なのか。寝るまで考えてみよう。

いやぁねぇ

結構前に書いた記事で「理解について」という文章を書いたんだけど、自分ではわりと気に入ってる。

評価されるのは怖い。人に何か言われたり、茶化されるのは恐ろしいことだ。

言われそうにったらすぐ逃げるのもいい戦法だと思う。ただ、そんな人に限って他人にはワーワー言うことが多い気がする。僕としては、彼らの言葉を上手く飲み込めない時が多い。

しかしそれを差し置いても、言われる内容は正しいこともあるので“何か言われた”=被害者という方程式は完成しない。時には素直に他人の言葉を受け入れる必要がある。プライドよりも大切なものは山ほどあるから。

 

そんな当たり前のことが、難しかったりするのよねぇ。いやぁねぇ。

まともでいるには金がかかる

今日は就職してから最初の給料日だった。

口座にまとまった額が振り込まれたのは何時ぶりだろう。とにかく嬉しい。

仕事が終わったらサウナにでも寄ろうと思ってたんだけど、朝イチで口座に振り込まれた金額を確認して、滞納分や関係各所へ諸々の支払いを済ませていくうちにみるみる残高が減っていってしまい、昼過ぎに給与明細を渡される頃には半分も残っていなかった。もうしばらく貧乏生活が続きそうだ。今週も土日は稽古とウーバーイーツになりそうな予感。

金がないのは辛いけど、いいこともある。いい加減ちゃんとしようと思ってこれまで目を背けていた清掃員時代のツケを払う決意を固めたんだがなかなか気分がいい。

ていうかこれまでの生活が破綻しすぎていた。20代前半の頃は(たかだか数年前だけど)社会的責任なんて1ミクロンも考えず遊んでいたんだが、僕と同年代で輝かしいキャリアを築いている友人達は、きっとその頃からしっかり働いて、しっかり税金を納め、ちゃんと勉強していたんだろう。

 

僕の知り合いには税金なんて納める必要がないと言う人もいるが、僕はそこまでアウトローにはなれないみたいだ。何かの影に怯えながら続ける生活ほど疲れるものはない。

 

とにかく今の僕に出来ることは毎日会社に行くこと、そして過去の清算をしながら目の前の課題に取り組んでいくことだけである。

結局僕はアーティストにもクリエイターにもなれていないが、僕の記事を読んでくれる人や僕の演技を見てくれている人は少なくともゼロではない。DJのyoutubeだって70回は再生された。商業的には全く価値のない数字でも、ゼロではないのだ。

東京に来なかったら決して訪れなかったであろう今のこの先に何があるのか

もう少し見てみたいと思う。

田植えレンタル

疲れすぎてタイトル考える回路に通信制限かかってるみたい。それっぽいネーミング考えるのにはわりと自信あるってのはここだけの話。

 

この間、就職の報告で親に電話してみたときの話。何となく、夏ごろに引っ越したい旨を伝えると、「今のところがいいんじゃない?」との答えが返ってきた。何となく、僕に東京で一人暮らしをしてほしくないような意図を感じる。

心配してくれてるのだろう、それとも女でも連れ込むんじゃないかと思ってるのかな。

女といえば高校時代、1度も口にしたことがない好きだった娘の名前を母親が知っていた、という出来事があった。他校の人だったしどういう経路でその情報を仕入れたのかは未だに謎である。携帯のメールの履歴も勝手に見られていたことがあるし、そこから盗み見たのだろうか。誰から聞いたのか尋ねてみても、「情報化社会だから」としか答えてくれなかった。

携帯といえば高校時代、僕が仲良くしてた友達はヤンキーだったんだけど、毎日のように「携帯見せて」と半ば無理矢理僕の手から携帯を奪っては、勝手に中学の女友達にメールを送ったりされたことがある。

そんなことから、僕は人に自分のスマホを触られるのが大嫌いだ。

スマホというか、あまり素の自分を見せること自体得意じゃない。

でもバンドやDJに手を出すくらいだから、いっちょまえに承認欲求はバリバリにつよいのだ。

見せたい自分と見られたくない自分に差がありすぎるのは身体に良くない。というか傷つかないための予防線を張りすぎると、結局のところその予防線が自分に牙を剥くことになるのだ。

表現ってのは、ダイエットやお洒落と似たようなもので自分をより良く、そして好きになるための手段にすぎないのかもしれない。noteとDJが僕の表現の主なフィールドだがこれらを選んだ理由は「見せたくない自分」がインプットしてきたものを最大限放出できる可能性を感じたことも大きい。素の自分を放出できるフォーマットは常に持っておきたいもんだ。支離滅裂すぎてワケわからんこと書いてるけど、最近DJばっかり触ってたから少しは文章も書かないとなあと思ってブログ書いてる。

ここでは触れてないけど役者と物語についても書きたいことがある。でもさすがに寝る、睡眠は僕にとってものすごく大切なので。

質は全然だけど、ここで書くことを選択したことで「めんどくさーい」にはまずは一勝といったところだ。と思っている。

 

僕の好きなもの

先月の頭から労働を再開した。派遣会社でのキャリアアドバイザー?とかいうやつだ。

アドバイザーなんて肩書きではあるけれど、実際は求職者に(こちら側にとって都合の良い)仕ある事を紹介するものなので大したアドバイスなんて1つもしちゃいない。特に思い入れのある業界や職種でもないので、メシを食うための手段だと割り切るようにしている。所謂ライスワークというやつだ。それでいても、確認や細かい作業の多いこの仕事はADHDの疑いが濃厚な僕にとっては一苦労。隣の席の教育係の人は多分僕のこういうところを見て「あ、こいつポンコツだ。」って思ってそう。手汗でキーボードやマウスが凄いことになるからそこでもう一段階引かれてそう。

正直なところ、宅配ドライバーのほうが性には合ってた。人と話すのが少ないからね、周りに人が多いとどうしても恐怖心や歪みきったプライドが僕の心に顔を覗かせにやってくる。こんなに人と話すことや、人に認知されるのが怖いヤツだったっけ…?きっと認知のされ方が望んでいるものではないことを受け入れる器量がないんだろうな。ただでさえ女性が多い職場だし、同期にはゴリゴリな美人おるし、テンパりまくりである。

だがそんな実態とは裏腹に、生活は好転している。文章を書く機会も前よりは増えたし、noteの閲覧数も伸びてきた。最近はあまり書けてないが、その間は何かしらインプットしたり、ミックステープを作ってYouTubeにアップしたり、ちょっとしたサンプリングビートなんかを作る勉強もしてる。自由な時間が減った分、その密度は前よりも濃い。6月には役者としてまた舞台に立つ。自分の表現したいものが少しずつ輪郭を帯びてきた感触は前よりもずっと確かだ。僕はアーティストじゃないけれど、自分というフィルターを通して世の中に発信したものを認めてもらいたいという願望は確かにあるんだなと再確認。仕事は仕事、それはそれ。お金もめちゃめちゃ欲しいけど、まずは自分の活動をまとめて人様に提示できるように組み立てていこう、金の話はそれからだ。

 

ロック

ヒップホップ

ステッカー

DJ

ラップ

洋服

ブーツ

バイク

マンガ

女の子

サウナ

怪談

映画

友達

 

仕事は仕事。好きなものは好きなもの。

大切にするものだけは間違えないようにしなくちゃ。

 

理解について

少し前に書いたブログでは自分が他人から理解されることについて書いた、今度は理解することについて書く。

 

前回、理解されることは“自分の思い通りの世界で生きていきたい”ということだと書いたが、逆に自分が相手を理解しようとした際はどうだろう。

ここでも、この“思い通りバイアス”は発動してしまっている気がする。

アイツは俺のことを認めていてほしいとか、あの娘は俺のこと好きでいてほしいとか。こういう感情は場合によってはカンフル剤になるし、モチベーションに繋がるからいいと思うんだけど、そうじゃない場合もあるから厄介だ。

例えば、「アイツらは俺を見て“羨ましい”と思っていてほしい」「アイツは俺のことを見下していて欲しい」なんて具合に、自分のなかで悪者や愚者として相手を位置付けてしまうと、“思い通りバイアス”がかかって他者を“理解”してしまう。

こうなると、いざそのバイアスが外れたときに自分の心にダメージがきてしまう。その結果、不用意に病んだり他者に攻撃的になってしまう。

 

ようは期待なのだ。言語化するのにだいぶ時間がかかったが、割と昔からこの考えに至っていた気がする。まあ、考えることと実行に移すことはまた別問題なのがなかなか難しいところなんだが。

 

信用するが期待はしない。

温かくも冷酷な態度というのが僕の理想なのだが、それを実現するためにはまだまだ強くならないといけない。

道のりは長い。

内省的なお話:理解について

人はなんで理解されることを求めるのだろう。

 

自分の考え、仕事、はては生活スタイルまで、他人から「いいね」をもらうことは独特な満足感がある。小学生だって近所のジジイだってそれは一緒な気がする。勿論僕も、というより僕は恐らくその傾向が他人よりも強い。

ずっといじられキャラが嫌だった。中学生から今に至るまでそれは一貫している。でも小学生の頃は違った。むしろ人を笑わせるのが好きだった。中学生になって、あらゆる面で自分は人よりも劣っているのかもしれないという不安が芽生え始めた頃にそれは来た。

人を笑わせたいという欲求よりも、人に笑われる恐怖が勝った。

「面白いね」という言葉が称賛とは違う意味を持つようになった。

ここら辺が僕の「理解」に対する認知の歪み始めだと思う。

人はみんな他人からこういう風に見られたいという理想がある。他人からの評価などどうでもいいという人達がいるなら、まだ僕はそこに辿り着けていない。でも、理解されることは自分が理想のまま他人に評価されることとは必ずしもイコールではないんじゃないかな。という気付きは得られた。

僕はいじられキャラとして周囲に「理解」されていた。それが不服だからずっとヘソ曲げたまんま何年間もやってきた。

理解されないのではなく、理解のされ方が自分の思い通りにいかなかっただけなのだ。

 

そういうセルフプロデュースが上手い人は、ある場所でボロクソに叩かれてても、自分に合った界隈でブレイクして思うがままに過ごしていたりする。

 

人はなんで理解されることを求めるのだろう。という問いに対する僕の答えとしては“自分の思い通りの世界で生きていたいから”というシンプルかつ根本的なものである。

ただまあ、他人の評価や価値観なんて変えられないし、変えさせるものでもないので、そこら辺の帳尻をどうやって合わせていくかが今年の課題かな。少なくともそういう世界に近づかせられるのは自分しかいないわけだし、頑張っていきますか~。