その水溜りの深さは

理解について

少し前に書いたブログでは自分が他人から理解されることについて書いた、今度は理解することについて書く。

 

前回、理解されることは“自分の思い通りの世界で生きていきたい”ということだと書いたが、逆に自分が相手を理解しようとした際はどうだろう。

ここでも、この“思い通りバイアス”は発動してしまっている気がする。

アイツは俺のことを認めていてほしいとか、あの娘は俺のこと好きでいてほしいとか。こういう感情は場合によってはカンフル剤になるし、モチベーションに繋がるからいいと思うんだけど、そうじゃない場合もあるから厄介だ。

例えば、「アイツらは俺を見て“羨ましい”と思っていてほしい」「アイツは俺のことを見下していて欲しい」なんて具合に、自分のなかで悪者や愚者として相手を位置付けてしまうと、“思い通りバイアス”がかかって他者を“理解”してしまう。

こうなると、いざそのバイアスが外れたときに自分の心にダメージがきてしまう。その結果、不用意に病んだり他者に攻撃的になってしまう。

 

ようは期待なのだ。言語化するのにだいぶ時間がかかったが、割と昔からこの考えに至っていた気がする。まあ、考えることと実行に移すことはまた別問題なのがなかなか難しいところなんだが。

 

信用するが期待はしない。

温かくも冷酷な態度というのが僕の理想なのだが、それを実現するためにはまだまだ強くならないといけない。

道のりは長い。