その水溜りの深さは

内省的なお話:理解について

人はなんで理解されることを求めるのだろう。

 

自分の考え、仕事、はては生活スタイルまで、他人から「いいね」をもらうことは独特な満足感がある。小学生だって近所のジジイだってそれは一緒な気がする。勿論僕も、というより僕は恐らくその傾向が他人よりも強い。

ずっといじられキャラが嫌だった。中学生から今に至るまでそれは一貫している。でも小学生の頃は違った。むしろ人を笑わせるのが好きだった。中学生になって、あらゆる面で自分は人よりも劣っているのかもしれないという不安が芽生え始めた頃にそれは来た。

人を笑わせたいという欲求よりも、人に笑われる恐怖が勝った。

「面白いね」という言葉が称賛とは違う意味を持つようになった。

ここら辺が僕の「理解」に対する認知の歪み始めだと思う。

人はみんな他人からこういう風に見られたいという理想がある。他人からの評価などどうでもいいという人達がいるなら、まだ僕はそこに辿り着けていない。でも、理解されることは自分が理想のまま他人に評価されることとは必ずしもイコールではないんじゃないかな。という気付きは得られた。

僕はいじられキャラとして周囲に「理解」されていた。それが不服だからずっとヘソ曲げたまんま何年間もやってきた。

理解されないのではなく、理解のされ方が自分の思い通りにいかなかっただけなのだ。

 

そういうセルフプロデュースが上手い人は、ある場所でボロクソに叩かれてても、自分に合った界隈でブレイクして思うがままに過ごしていたりする。

 

人はなんで理解されることを求めるのだろう。という問いに対する僕の答えとしては“自分の思い通りの世界で生きていたいから”というシンプルかつ根本的なものである。

ただまあ、他人の評価や価値観なんて変えられないし、変えさせるものでもないので、そこら辺の帳尻をどうやって合わせていくかが今年の課題かな。少なくともそういう世界に近づかせられるのは自分しかいないわけだし、頑張っていきますか~。