その水溜りの深さは

プロローグ

『本船にはWi-Fiなどの設備はございません。』

 

36時間にも及ぶ船旅において、この事態は僕にとって最大の誤算だった。暇潰しのコンテンツはいつしかその全てがスマートフォンに詰め込まれるようになっており、この退屈な船内において唯一にして最大の娯楽を奪われることになってしまったのだ。他にも返さなければならない連絡も溜まっており、それをそのまま放置しておくのは何だか胸の辺りにずっしりとした錘をつけられている気分になる。船内のロビーはいくつもの電球色の照明に照らされており、一見温かみのあるかのように感じられるが、誰もいなくなったこの時間は少し不気味だ。

1年と少し前に、ずっと憧れだったオートバイの免許を取った。中学生の頃に「大人になったらバイクに乗りたい」と両親に告げたところ、理由も聞かれず大反対されてしまったこと思い出す。きっと今でもそれは変わっていないだろう。振り返ってみれば、僕が憧れたものや興味を抱いたことは大抵、両親は良い顔をしなかったし、僕もその理由を聞かれることは少なかった気がする。僕がいまバイクで旅をしていることも、きっと彼らは良い顔をしない。まだ乗船してから2時間も経っていないのに、こんなことを考え出してしまうあたり、日頃どれだけスマートフォンに頼って思考を滞らせているかが分かる。こんな状況もめったにないことだし、自分について考えてみるのも良いかもしれない。

ツイッターやインスタグラムの情報を処理する必要のなくなった脳みそが、水槽に入れられたばかりの魚のようにぐるぐると泳ぎだす。昔のことや、これからのこと、色んな人の顔が次々と出てきては、ぐちゃぐちゃになって混ざっていく。

一体、僕は何者なんだろう。